現実と投影
セラピーにくる人達の中にはカップルも含まれています。カップルは既に結婚している人もいますし、そうでない人もいます。どちらにせよ、二人の間に問題があり、それが二人の関係を壊してしまいそうなので、相談にくるわけです。私は、彼の言い分と彼女の言い分を聞き、いつもながら二人の意見が一致していないのに気が付きます。二人が同じ時に同じ場所にいて、同じことを経験したはずなのに、二人の見解が違うのは、必然的に起こりますし、そこにいなかった私がどちらが正しいといっても、埒が明きません。
この状態を見て、思うのですが、現実はいったいどこにあるのでしょう。彼の見た現実は彼にとって正しいでしょうし、それは彼女にとっても同じです。一方の見解を取ってそれを現実と認めることは、もう一人の現実を否定することで、これ自体解決には至らないでしょう。また、現実は、二人の現実を足して割った辺であると打算的なことを言っても不満が残りそうです。その上、私が二人の話を聞いて、総合的な判断を述べても、それが二人が経験をした現実だとは思えませんし、最終的に私の判断は、第三の見解を述べただけに過ぎません。
いったい現実とは何なのでしょう。もし、ある事柄を10人の人が観察したら、多分10通りの見解が出てくることでしょう。共通点はあるにせよ、違う点も出てくると思います。10人いたら、10通りの現実があるのでしょう。それなら、通常言う現実がないというのと同じです。この10通りの現実は、言いかえれば、10人の10通りの経験ということになります。それでは、同じことを目の前にして、どうして10通りの経験が出来上がるのでしょう。
私たちの知識がどのようにして生まれてくるのかを研究する学問を認識論epistemology
と言います。私たちのある事柄についての認知はどのようにして、出来上がるかを考える哲学です。それについてはいろいろな方法があるのですが、その認知方法を心理的に考えてみようと思います。
ある物が暖かくて、冷たくもあります。それがきれいであったり汚かったりします。それはその上、動いたり止まったりします。それは高い時もありますし、安い時もあります。それがあってよいこともありますし、悪いこともあります。それは上がるときもありますし、下がるときもあります。触れるときもありますし、触れないときもあります。私はただ一つのことについて書いているのですが、そのものは時によってこれだけ変化をします。すなわち、これだけたくさんの性質があるのですから、人がそれ見て、何通り分の解釈ができても不思議ではありません。実は私は「水」のことを述べていたのです。
ということは、人はある物を経験したとき、そのときの心理的状態や気持ち、そして過去の経験によって、認識が出てき、それは、人によって違ってくるのが当たり前になります。すなわち、私たちが現実と思っていることは、現実なのでしょうか。それとも、私たちに中に出来上がった認識だけに過ぎないのでしょうか。そして、その認識を現実として入れかわれてしまっているのでしょうか。私たちの知るところの現実は、人、独り独りの認識だけであるかのように思えます。
心理学には、投影と言う概念があって、それは、私たちの心で思っていることを、外の世界に見てしまうプロセスのことを指します。この投影が私たち個々のある経験についての認識を外の世界にあるように経験させ、現実が出来上がってくるように思えます。心の中のものが現実になり、現実と思っていたことが、実は心の中のものだったと気が付きました。