真の自分の再定義

 

ある患者さんが、毎日仕事に行き、精一杯働いて、家では家族のためにできるだけのことはしていますが、楽しみはないし、幸せに感じないと嘆いていました。私は彼の楽しみがないと言うことに、心を引かれました。何か自分で楽しみながらすることはないのかと、不思議に思いながら聞きますが、答えは戻って来ません。そこで、自分の楽しみと言うのは、本当の自分から出てくるのだと思いますが、彼曰く、真の自分が何であるか、どこにいるか解らないそうです。どのようにして、真の自分を発見し経験するのでしょう。

 

先ず、真の自分でないものの方が、解りやすいかもしれません。楽しめない仕事をしていても、そこには真の自分は出ていないと思います。また、他の人を楽しませるだけの自分を見てもそこには、真の自分は出ていないでしょう。すなわち、私達の義務的な活動は、それをすることによって、私達の立場や権利を守ることができますが、それ自体私達を楽しませないですし、真の自分にあたいするとは言えないでしょう。

 

以前に「仮の自分」(200411月)と題して本当の自分とは何かを、追求したことがありますが、その時自分を失ってしまう原因として、相手に合わせてしまうと言うのがありました。そうすることによって、自分を守ろうとしているわけなのですが、実際にはそれによって自分を失ってしまい、自分を守ることと矛盾をしてしまいます。あの時、私は、相手に合わせなければならないときはあるかもしれないが、恐がらないで自分の主張をすることも、大切であると書きました。

 

でも、自分を主張するだけが、真の自分の発見にあたいするとは言えません。つまり、時には主張すること自体が、真の自分を隠すことになるとき、すなわち、ある主張によって真の自分を守ることをしているときがあるからです。

 

真の自分は、相手に合わせて自分を守ることではなく、自分を主張して、自分を守ることでもありません。真の自分は自分をぜんぜん守っていないときに現れるものであると考えられます。自分を守ろうとした時に、真の自分は屈折し、その本質を失ってしまうと言うことなのでしょう。

 

では、自分を守っていないときの例を見るけることができるでしょうか。残念なことに、人間関係のなかでは、相手がいるために、必然的に自分を守ることをしてしまっています。唯一思いつくのは、子供が母親の前で、母親を信頼するがために、彼女が自分を守ってくれるから、自分はそれに頼ることによって、自ら守る必要がなくなるときです。このような強い信頼関係の中でしか、自分を守る必要がなくなるので、普通の大人の人間関係では自分を守る必要がなくなるとき、すなわち真の自分を経験することは極少ないと考えられます。

 

では、私達が一人の時はどうでしょう。例えば、昨日私はある家具を直していましたが、それにふけっている間は、自分のことも考えず、誰が何を思うであろうかなどという考えも浮かばず、自分を守る必要性は最小限であったと思います。その時に自分は、家具を直すために、いろいろと想像を使い、材料と工具を工夫して使い、真の自分が比較的屈折せずに現れ、あるレベルで経験されたと思います。

 

また、読書に耽っているときなど、内容に対して自分の反応が起き、それに対して自分を守る必要がなく、それを自由に経験したり、理解したりしているときには、真の自分がそこにあると思います。

 

といることは、真の自分とは非常にはかないもの であるということと、自分を守りだすと直ぐ失ってしまう貧弱なものであると言うこともできます。人間関係の中では、それを経験するのは難しい課題であり、その状態を保つこと自体一つの理想の追求であると言うことかも知れません。

 

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